プロフィール
絶望の淵から私を救ってくれたのは、いつもピアノでした!
「えっ?! 何が絶望だって???」
「いつも美味しいものを食べて楽しそうに笑っているじゃない?」
なんて声が聞こえてきそうですが、若い頃にはいろいろあったのです。
たくさん歳を重ねてきましたから、今では「毎日幸せでいられるコツ」をマスターしちゃっているので、毎日がほんとうに幸せ~!
今では、もうあれやこれや思い悩むこともなくなりましたけど。
若いころは、“もう生きていけない”と思うぐらい絶望的な気持ちになることが幾度かありましたのよ。
「大好きだったピアノも弾きたくない…」
「ピアノの前に座ってもピアノを弾く気が起こらない…」
「何もやる気が起こらない…」
生徒に人気のピアノの先生だった私が、ピアノを奏でる音色では誰にも負けない自信のあったはずの私が、ピアノを全く弾けなくなった数年がありました。
それが“うつ病”であったことが分かったのは、それから数年後のことでした。
人生の紆余曲折を経て、ようやく人生一段落。
そんな時にふと目にした『バリントグループ研究会の募集』なる小さな広告が、
私の未来を大きく変えることになるのでした。
誰にだって、生きていればひとつやふたつ絶望的なことって、ありますよね。
今では、いろいろ分かることも、その渦中にいた時はさっぱり分からなかったのです。
そんな私のピアノ人生を少し綴ってみました。
ちょっと長いので、ここから先はお時間が許すときに読んでくださいね。
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この上なく音楽を愛する父のもとに誕生しました
私、店村眞知子は、フランス文学者で大学名誉教授の店村新次のもとに生まれました。
父はピアノもヴァイオリンも好んでよく弾き、ラジオではシャンソンを披露することも多く、ちょっとした有名人でした。
父は、音楽関係の著書も多く、戦後のクラシック音楽界の一旦を担っていたといっても過言ではないと思います。
第二次世界大戦中の戦時中には、軍の司令部からグランドピアノをあたえられ、戦地でピアノの演奏をしていたのだといいます。
そんな父のもとで、私は6歳からピアノを、2人の兄は4歳からヴァイオリンを始めました。
父から音楽の魂をみっちり仕込まれて育ち、のちに兄の店村眞積は世界的に有名なヴィオラ奏者になったのです。
よく遊んだ幼少時代
幼児の頃は、兄妹とも音楽修行は始まっておらず、家の前のお寺の畑で朝から晩まで兄と遊んでいました。
畑のじゃがいもの茎を引っ張っるとゴロゴロとじゃがいもがついてくる…。そんなことが楽しくて、とにかく日が暮れるまで兄妹仲良く遊んでいました。
あふれる好奇心と体力をすべて使いつくし、軽い疲労感をともなう達成感にも似た満足感がとても心地よかったこと、今でもよく覚えています。
このような五感で感じた感覚は、我々兄妹の感性の襞(ひだ)に組み込まれていて、その後の音楽演奏時の表現の豊かさにつながったと思っています。
このように、子供の頃に五感をフルに使って思いきり遊ぶことは大切だなと、思うのです。
ピアノの特訓が始まった小学校時代
朝から晩まで全身全霊で遊ぶ…。そんな牧歌的な生活は、小学生になると一変しました。
父は子供達に遊ぶことを許さず、毎日、数時間にもおよぶピアノの練習を課しました。それはそれは脅迫的と言えるほどのものでありました。
父にとって小学校での生活はあまり重要視されることはなく、子供を学校へ行かせることより楽器の練習の方が大切だったのです。
そんなストレスフルな環境は私を病弱な体へと導き、小学校は病欠による長期欠席をいくどもいたしました。
中学校時代 学業よりもピアノ優先の日々 そして初恋!!
父によるピアノ修行の猛特訓は、小学生の頃よりも精密で過酷なものになっていました。納得のいく演奏にならない時は夜中までもピアノの練習を課す、というようにです。
しかし、父の納得のいく満足な演奏ができた時には、父は“世の中にこれ以上の幸せがないんだ”と言わんばかりのオーバーすぎるリアクションをしたものでした。
そうして育てられた私は、その当時、ベートーベン『ソナタ』や『熱情』などは軽く弾きこなせていたことを覚えています。
そして、その頃の音楽以外の思い出といいますと、やはり“初恋の思い出”です。
うりざね顔の綺麗なお顔をしたK君のことが大好きでした。とても気品に満ちた人で、2人でお話したことはほとんど無かったのですが…。
しかし、ピュアな恋心と、そこから生じる高揚した精神は、時に甘く、時に激しく、私を音楽修行に没入させる甘美なエッセンスとなっていましたのよ。
高校時代 ピアノの師匠との出会い
高校は、中学から一貫教育で入学した同志社高校に通っておりました。
幼少期からの父によるスパルタ式のピアノレッスンは続いていましたが、高校3年生で大学進学を考え始めるころ、一人のピアノ教師に出会いました。
それは、ドイツ人のピアニストでジュリアード音楽院を首席で卒業したエルンスト・ザイラー先生でした。
それまで父によるスパルタ式の過酷なピアノレッスンを受けてきた私でしたが、ザイラー先生のレッスンもたいへん厳しく、相当の集中力を要するレベルの高いレッスンでした。
しかし、ザイラー先生の奏でる美しい音色の生演奏を目の前で享受しながら受講するレッスンは、このうえなく至福で貴重な体験でもありました。
アメリカのジュリアード音楽院がそっくりそこに来たといえるぐらいの音楽教育が繰り広げられていました。
これは、父を超えるピアノの師匠に師事した最初で最後の貴重な出会いでした。
ザイラー先生のレッスンは、私をかつてないほどピアノの練習に打ち込ませ、私のピアノ演奏の腕前もぐんぐんと上達していきました。
【挫折】 神戸女学院大学音楽部 入学も
17歳。
音楽の魂に魅入られ、音楽人生まっしぐらで育てられてきた私は、当然のごとく東京の有名音楽大学への進学を夢みておりました。
しかし、父の大反対に立ち向かうすべもなく、神戸女学院大学音楽学部への入学を決めたのでした。
父は、“女の人生は結婚が大事”とばかりに、どちらかというとお嫁様養成学校のような意味合いの強い大学への進学を進めたのです。
“嫁入りこそが女の最上の生き方”とする父のその思考は、私にとってたいへん屈辱的にさえ思えました。
その大学には、ピアノで個別レッスンを受けていたザイラー先生が在籍されていましたが、私が入学した2カ月後には、先生はドイツへ帰ってしまわれました。
私にとって尊敬する師匠の帰国はたいへんショッキングな出来事でした。
その後、ザイラー先生以上に心底尊敬できる先生には出会うことができず、一時期寝食を忘れるほど楽しかったピアノの練習も楽しくなくなり、たいへんつまらない大学生活を送ってしまいました。
特段ピアノの練習をしなくてもピアノは弾けるし、成績も主席をキープ。
そして、大学公認で同級生や下級生にピアノレッスンを施したりもしていました。
そう、これが私の初めての「ピアノの先生」なのでした。
月謝はいただいていませんでしたけどね…。
18歳から22歳という一番伸びしろの大きい時期に、適切な指導者に厳しく指導される機会に恵まれなかったのは無念というほかありませんが、それにしても今から思うと、生意気な生徒だったに違いないと思うところです。
人生で最も大きな挫折でした。
大学のピアノ科主任のすすめでイタリア留学へ
大学卒業後は、大阪芸術大学と京都大谷短期大学で、ピアノの非常勤講師をすることになりました。
大阪芸術大学ではピアニストを希望する生徒へ、京都大谷短期大学では保育士養成の生徒へ、ピアノと音楽理論などを教える先生をしていました。
そんな折、大学時代に目をかけてくださったピアノ科主任の先生からのすすめもあり、非常勤講師を1年で終了し、イタリアのフィレンツェへ留学をすることにしたのでした。
大学時代のピアノ科の恩師が紹介してくれた、日本を代表するピアニスト某先生を頼りにイタリア入りしました。
このご縁で、その後ヴィオリストを目指していた兄(店村眞積)も留学が決まり、“世界的な弦楽器奏者”と“世界的なモーツアルトの歌い手”と称えられたシュザンヌ・ダンコ先生と、伴奏で有名な原智恵子先生に囲まれて室内楽の特訓を受けることが出来たのでした。
そして、兄の師匠である“世界的なヴィオラ奏者”ピエロ・ファルッリ先生にも師事することができ、思いもかけず私はそこでみっちりとデュエットの腕を磨くことが出来ました。
【またしても挫折】 イタリアでの鬱(うつ)病の発症
イタリアでは、数々の素晴らしい師匠に鍛えられて、ヴァイオリンを弾く兄とピアノ伴奏をする私で共演する生活が続きました。
数々のコンクールにも果敢にチャレンジし、ジュネーブコンクールで2位優勝までこぎつけたこともありました。
もともとがとても仲の良い兄妹でしたから、兄弟で切磋琢磨することもたいへん心地よく、このうえない好条件のもとで音楽修行に精進していたつもりでした。
ところが、順調に見えていた留学生活の歯車は狂い始めていました。
兄妹での活動に精を出すにつれ、師匠と仰いでいたはずの某先生からは、私の音楽への情熱を全否定されるような言葉を投げられるようになっていきました。
私は、ピアノを弾けないばかりか、ピアノに触れることさえできないような精神状態に追い込まれていきました。
大好きだった音楽も、自分の成長を実感していたピアノも、もはや楽しむ余裕は消え失せていました。
挫折と失意のどん底にうちひしがれ、やむなく帰国を決意することとなりました。
後に、この時、鬱病を発症していたことが分かるのですが…。
結婚、そして鬱病からの帰還
28歳でイタリア留学から帰国した私は、完全なる無気力の中に居ました。
華麗なるピアニストを夢みて意気揚々とイタリア留学に旅立った私が、帰国時にはピアノに触れることすらできなくなっていました。
そんな鬱鬱とした様子を見かねた方のお世話で、ある哲学者と結婚することになりました。
29歳でした。
結婚した当初、彼は当時の私に必要なたくさんの言葉のシャワーをくれました。
「あなたは間違ってなかった」
「人間は神よりも素晴らしいかもしれないよ!」
「人生の将来に対するイメージをはっきり持ちなさい。あなたの将来はその通りになるから」
……。
彼の日々の精神的支援のおかげで、精神科での治療を受けることもなく、重症だった鬱がいつの間にか完全に治癒していました。
2人の子供にも恵まれ、かつての元気一杯だった私に戻りつつありました。
ただし、幸せな結婚生活はそう長くは続きませんでした。
私が鬱から快復し、夫のサポートが必要なくなってくると、夫との関係はガタガタと崩れていきました。
サポートする対象を失った夫の不全感は、長女へと向けられるようになり、離婚を考えざるを得なくなりました。
そして、これがのちの長女の鬱病発症への遠因となっていたのでした。
41歳、離婚。心機一転の再出発!!
もと夫の長女へのイジメがエスカレートすることが黙認できず、離婚を決意したのが40歳。
婚姻時より、ピアノの先生はしていましたが、ピアニストの夢も捨てきれずにいました。
そんな私に、父と兄は口々に言いました。
「今さら何をしても無理だよ」
「子育てだけしてろよ」
「お前の生き方がよくなかったのだ…」
「今からピアノやっても無駄だよ。もう遅いよ」
しかし、私は諦められませんでした。
“私にはピアノしかない”
“私は絶対にピアノで生きていく”
根拠のない自信というか確信がありました。
そんな折、母だけは私の味方をしてくれたのです。
「あなたを信じましょう!」
といって、私の兄と父から私を守ってくれたのです。
本当に嬉しかった。
この時の嬉しさは一生忘れません。
それからというもの、朝から晩まで練習する日が続きました。
そして、その翌年から約10年、ピアニストとして年間7,8回ものコンサートを定期的に開催し続けることができたのです。
人生の転機! ~心身医学のドクターと運命の出会い~
念願のピアニストへの復活を果たし、福祉専門学校の講師もはじめ、思い描いた未来を想いながら新聞を目にしていたあるとき、小さな広告に目が留まりました。
『心身医学の研究会 バリントグループ(全人的医療研究所)勉強会』
医師でなくても、医療や福祉職、教育職などに関わる人なら参加できました。
私は、すぐに申し込みをしていました。
研究室では、あるイケメン映画監督を彷彿とさせる長身の医師が出迎えてくれました。
その紳士こそ、その後、活動のパートナーとなっていく永田勝太郎先生でした。
バリントグループの医療手法は、身体の不調を表面的な症状だけで診るのではなく、相談者の心理状況、社会的環境など、総合的な知見から、不調の根源を一緒に見出していくというものでした。
イタリア留学中のできごとや、当時、私が抱えていた感情など、話していくうちに、私は鬱病を発症していたことを知りました。
グループの勉強は、時にたいへん難解な内容もありましたが、私にとって興味深いものばかりで、まるで探し求めていたパズルの1ピースが見つかったような高揚感さえありました。
心機一転! 猛烈シングルマザー
・ピアノの先生
・聖隷介護福祉福祉専門学校で音楽の非常勤講師
・ピアニスト復活のためのピアノ修行
・定期的に開催していたピアノコンサート
・全人的医療の勉強
と育児。
育児と自己実現のはざまで、ものすごい底力がみなぎっていました。
鬱でピアノに触れなかった10年のブランクを埋めるピアニスト修行も、人生初の医療分野の勉強も、過酷な鍛錬を必要としました。もちろん、初めての育児も…。
でも、辛いからって、もう泣くことはありませんでした。
いや、泣いてる暇なんてありませんでした…。
一歩ずつ一歩ずつ前進あるのみ。
そうこうもがいているうちに、京都でも浜松でも、ピアノコンサートの開催を支援してくださる方にお会いすることができ、同時にピアノの先生としてもたいそう繁盛していたのでした。
大学准教授就職でピアノの先生を中断
52歳。転機は突然にやってきました。
聖隷介護福祉専門学校の非常勤講師時代に注力していた“リベラルアーツを用いた介護士の育成”や、浜松医科大学付属診療内科での永田勝太郎先生との音楽療法の共同研究が認められ、
聖隷クリストファー大学社会福祉学部の准教授に抜擢されたのでした。
定期的に開催していたピアノコンサートも、ピアノの先生も辞めざるを得ませんでした。
断腸の思いではありましたが、准教授をしながら全てを続けていくことは不可能でした。
医学との出会いが導いた音楽療法の世界
“音楽療法”といえば
眠りに導くオルゴールのような音
雑念を取り払って集中できる波の音、
森林浴をしているような川のせせらぎ、小鳥のさえずり
…。
そんな身近にある優しい音色を思い浮かべる人も多いかもしれませんね。
でも、私がたどりついた“音楽療法”はちょっと違っていました。
悩める人間の深層心理の核に入り混んで治療する音楽、いわゆるオートクチュールのような究極の癒しの音楽だったのです。
私が勉強してきた“全人的医療”という方法論は、
不調を訴える患者の身体的不調だけを見るのではなく、人間まるごとを理解したうえで総合的に診察しようという方法論です。
これは、鬱を罹患して生きてきた私にとって、たいへん心温まる医療で、広大な砂漠でオアシスを発見したかのような安堵感さえ感じるものでした。
しかし、医学の勉強は容易ではありませんでした。
定期的に発表しなければいけない英文での論文発表、感性に頼らないエビデンスに基づく論理的思考など、音楽しかしてこなかった私には初めてのことばかりでした。
私を指導してくださっていた永田勝太郎先生は、そんな私に少しの甘えも許しませんでした。
それでも、私は必死でくらいついていきました。
「君は医療の領域に入って新しい音楽の可能性を開拓したね!」
永田先生の研究室で音楽療法の研究に奮闘していたある日のこと、
聖隷クリストファー大学の上司であるN教授がこのように評価してくれたのでした。
その教授は、医療の世界から福祉の世界に入ってきた人でした。
私は、心の中でガッツポーズをしていました。
今までの苦労が報われたような気持ちでいっぱいでした。
幾人もの統合失調症の患者を治したり、廃人同様になっていた精神疾患とされる患者を立ち直らせたり…。
気が付けば、私は絶望の淵をさまよう人たちを救い出すお手伝いができるようになっていたのでした。
そして、今のピアノ教室の生徒さんに、この手法が必要かなと思った方には、さりげなく用いさせていただくこともあります。
みなさん、気がつくと元気になっていかれるんですよ。
私は、これがとても幸せなのですよ。もちろん、ピアノの腕前をあげていかれるのが嬉しいのは言うまでもありませんが。
そうだ、京都いこう!
65歳。聖隷クリストファー大学の准教授を退官して、
気がつけば2人の娘も大きくなっていました。
上の娘はすっかり社会人になり、下の娘も大学生になっていました。
ある日、上の娘が突然言いました。
「私、結婚するから、お母さんは京都に帰ってこの家を守ってよ」と。
浜松でも、やりきった感が充満していた頃でしたから、娘の言葉に導かれるように京都への帰郷を決意しました。
父の特訓を受けたピアノのアトリエは、かつてと変わらない神聖な気が満ちていました。
父はとっくに他界していましたが、父の気配を感じることすらありました。
父はたいへんピアノが好きでしたから、もしかして… なんて。
浜松から京都まで、兵庫県から京都まで、遠方からはるばる通ってきてくださる生徒さんもありましたが、長らく離れていた京都では新しいピアノの生徒さんが思うように集まりませんでした。
その上、コロナが始まってしまいましたから…。
アシスタントとの出会い
「こっちよ、こっち。ハ・ヤ・ク・・」
大きな荷物をもって大声で叫んでいる男の子連れのお母さんがいました。
近所のお店で会ったその人は、どこか心にひっかかる人でした。
しゃかりきな感じのその人は、嫌いではない感じがしました。
そんな出会いから一ヶ月ぐらいした時、電話がなり、
「ピアノ教室やってますか? 5歳の男の子、大丈夫ですか?」って。
驚きました。
その人は、近くのお店で見かけた人でした。
その人も私と同様シングルマザーでした。
結局、お子様の都合で生徒さんにはなりませんでしたが、その後、そのお母さまは「癒輝庵 do iT.」のアシスタントとなり、深い深いお付き合いが続いていくのでした。
「癒輝庵 do iT.」 設立
まずは癒して、それから本来の輝きを取り戻す庵 “癒輝庵(ゆきあん) ”
元気になればなんでもできる “You can do it.”
ふたつ合わせて、「癒輝庵 do iT.」
アシスタントさんが命名したその屋号に、心躍りました。
そのアシスタントさんは、私が今までやってきた研究にたいそう興味を持ってお話を聴いて、理解を深めようとしてくれていました。
そして、音楽療法の演奏・講演会の開催を手伝ってくれたり、未来への活動のサポートをたくさんしてくれています。
浜松でピアノの先生をもう一度がんばってみよう!
生まれ故郷の京都では楽しく有意義な出会いがたくさんありました。
アシスタントさん、コンサルタントの保科先生、素晴らしい工芸家の方、音楽で世界を楽しくするために政治家を目指そうとする大学時代の教え子さん…。
おそらく京都でしか出会えない緻密で精工な思考や技をお持ちの方々との過ごした時間は、一生の宝物になりました。
しかし、成人してからの人生の大半を過ごした浜松では、多くの音楽仲間が待ってくれていました。
私を育ててくれた音楽の街「浜松」。
これから、恩返しをしなくっちゃ。
京都で知り合った大切な仲間と離れてしまうのは悲しいけれど、
今はZoomだってあるし、場所が離れていても距離はこえられる!!
コロナは、いろいろなことを教えてくれました。
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Special Thanks!! (for music)
私が40歳で鬱病から帰還して、
「もう一度ピアニストになる!」と言った時、
兄と父にはさんざん反対されたけれど、
やっぱり私はピアノをしていて良かった。
音楽を追究し続けてきたためか、直観力が研ぎ澄まされてきたように思います。
医学と芸術、両面から音楽を学んだ成果は大きく、私と娘の鬱を乗り越えて、他人の鬱もわかるようになりました。そして、悩める方々を癒してさしあげることもできるようになりました。
また、豊かな感性の世界観を持つ人に出会えるチャンスが増えました。それらの出会いは、いつも私に新しい息吹をもらたしてくれました。
これこそ、リベラルアーツの醍醐味ですね。
Special Thanks!! (for my dad)
父のピアノレッスンは、時に過酷を強いるものではあったけれど、やはり素晴らしかった。
父のレッスンが終わったとき、毎回、世界が変わってみえたものです。
それは、“人生の夢と輝きが手に入ったようなレッスン”でした。
音のフレーズごとにいかに光を当てるか。
そんなトレーニングを毎回、私にほどこしていたのでした。
父は文学者だったので、音楽に文字のような表現能力を持っていることを知っており、それらを理解させようとしていたのでした。
今思えば、音楽の分野においては、たいへんたいへん偉大な父でありました。
Special Thanks!! (for you)
私は、子供のころから音楽の特別な訓練を受けてきました。
日本では珍しいのではないかなと思います。
そして分かったことがあるのです。
音楽には、壮大な宇宙が込められている!!
音楽は人を幸せにする要素で満ち溢れている!!
そう。これらが、最近、よく耳にする“リベラルアーツ”ってものですね。
「ピアノをすると頭がよくなる」
あまり好きな言葉ではないのですが、あながち嘘じゃなくて、音楽にはすごい力があるのです。
こういうことを、ピアノレッスンでも、講演会でも私なりの言葉でお伝えしてさしあげるのも、私の使命なのかな?!
と思うようになりました。
あと、すごく張り切ってピアノを弾いてられる方も多い気がするんですよね。肩が凝ったりしんどくならないかな? と心配になる方、けっこういらっしゃるんです。
ラクにラク~に、体をほぐしてリラックスしてピアノの演奏ができると、とても良い音色が出るんですよ。
そんな弾き方ができたら、ピアノがもっと好きになるし、音楽がもっと好きになる。新しい世界も広がるのではないかなと思うのです。
本当に良い音色を出して弾けるとき、肩が凝らないばかりか、体全体がとてもラクになって元気になる!
難しくないのだけど、ちょっとしたコツがあるのです。
そんなちょっとしたことを教えてあげれたら、音楽がどんどん楽しくなるし、みんながハッピーになれるはずって…。
長いプロフィールになってしまいましたね。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
みなさまが音楽とともに実り多き人生を過ごされますように。